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トクト (ジャライル部) : ミニ英和和英辞書
トクト (ジャライル部)
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


トクト (ジャライル部) : ウィキペディア日本語版
トクト (ジャライル部)
トクト(脱脱、至元元年(1264年)-大徳11年(1307年))は、元朝前期の政治家武将チンギス・ハーンの「四駿」の1人として知られ、「国王」の称号が与えられたムカリジャライル部)の玄孫(孫の孫)にあたる。
== 経歴 ==
ムカリの没後も「国王」の称号はムカリの末裔が継承することが許されていた。だが、1239年にムカリの嫡孫にあたるタシ(第3代国王)が28歳で急死する。タシの子供が幼少であるため一門を統率できなくなることを恐れたムカリ王家の人々はタシの息子に諸侯として相応しいだけの財産を分与して分家させ、タシの弟であるスグンチャクを第4代国王に立てた。スグンチャクがトクトの祖父にあたる。スグンチャクの子・撤蛮はスグンチャクの末子であったが、フビライ・ハーンはその才能を買って自分の手元で育て、長じると自らの側に置いたが17歳の若さで没した。
幼少で父親を失ったトクトは母親とともにフビライの保護を受けて育てられた。至元24年(1287年)にフビライがナヤン討伐に向かった際にこれに従う。戦闘の開始を告げる鼓は未だ鳴っていなかったが、敵の様子を知らせる侯者が敵の隙に乗じるべきであると報告すると、トクトは手兵数十名を率いて奇襲をかけてこれをやぶった。フビライはトクトの軽挙を戒める一方で、亡くなった撤蛮の子が成長したことを大いに喜び、自らの佩刀と乗馬を下賜した。翌年、ナヤン方についていたを討伐するフビライの孫のテムルに付けられた。後にテムルが次期ハーン継承者に内定すると、そのまま側近として仕えた。テムルが即位すると、上都留守・通政院使・虎賁衛親軍都指揮使に任じて側に置いた。大徳3年(1299年)、栄禄大夫・江浙等處行中書省平章政事に任じられた。かつての南宋の領土であった江南は旧南宋出身の文武官が実際の政務を行い、元朝の統一した政策とは異なる統治の部分があった。これを円滑に一本化していくのがテムルにとっては大きな課題の1つであり、トクトはその実現のために派遣されたのである。テムルのトクトに対する期待の大きさは、トクトが任地に向かう際にテムルが中書省に命じて送別の宴を開かせていることからも伺える。
任地に入ったトクトは厳格ではあるが公平な裁判を行って民衆の信頼を得て、現地の有力者に対しても容赦をしなかった。大徳7年(1303年)、元海賊でありながら漕運の功績によって要職に就いていた朱清張瑄の不法行為が問題視されるようになると、朱清らはトクトに金50両と珠3嚢を贈って買収を試みた。これを見たトクトは憤慨して却って朱清らを捕え、後に処刑した。テムルはムカリ以来トクトに至るまでの忠節を評価して金50両を与えた。
トクトによって江南情勢は安定したためにその在任は9年もの長期に及んだ。ところが、天徳11年(1307年)にテムルが崩御すると、トクトも後を追うように44歳の若さで病死してしまった。トクトの息子のドルジは、第8代国王ダラダイアスギバ擁立に加担して処刑された後に第9代国王に任ぜられ、一時ダラダイの弟のナイマンタイに王位を譲り、中央に出て中書右丞相に任じられ、後に再度第11代国王になっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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